SSブログ

地震予知とは [地形・地質]

追記2017.1.27)
遠田晋次先生の「活断層地震はどこまで予測できるか」(講談社ブルーバックス)を読んだ。生半可な知識で云々すべきでないと反省しています。同書には、
「最近は地震ハザードマップといえば、”確率論的地震動予測地図 ”を示すことが多くなった。これは、あくまでも”地震動がある一定震度を超える確率”であって、”地震の発生確率”ではない。1996年以降に発生したM6.5以上の内陸地震を重ねてみると、地震ハザードマップの確率の低いところを狙っているようにさえ見える(はずればっかり!)。しかしこのような比較は正しくない。内陸地震がいかに強烈でも、震度6弱以上の揺れを被る地域は限られ、日本地図からすると点のようなもの。もしも30年以内に南海トラフ巨大地震が起きると、”当たった”ということになる。」とあります。
ハザードマップは、被害の甚大な海溝型地震(下図左)を用いることが多く、最近発生している地震は陸域の浅い地震(下図右)という訳ですね。
震度6弱以上30年s.jpg

地震調査研究推進本部 全国地震動予測地図2016販より 
以上追記
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 
 
地震は火山噴火と並んで、日本にとって最も大きな、困った問題である。大地震がやってくるのは間違いない。そこで、「予知」して被害を最小限に抑えようと考える。地震予知関連で年間3桁億円の予算がついているという。ところが、阪神淡路大震災以降、どうも「予知」はできないと知って、看板を掛け変えた。 「予知」が消え、「地震調査研究推進本部」である。
 
実際に地震が起こっているのは色の薄いところである
 
 
地震動予測と実際a.jpg
上図は、東京大学大学院理学部のロバート・ゲラー教授の「日本人は知らない「地震予知」の正体」という著書から引用させていただき、最近起こった地震を書き加えたものである。 色の濃いところほど発生確率が高いとされるところである。この「濃さ」・ハザードマップが地震予知連絡会の「成果」である。大切なものだ。
しかし、これだけ当たらないのなら(東日本大震災はやや色がついているが、M7クラスと言ったのでありM9.1は当たった内に入らない;M7とM9ではエネルギーは1000倍違う)、発生した地震や最新の知見をを集めて逐次修正してゆくべきではないか。そのために予算を確保しているのではないか、と門外漢は考えてしまう。地球46億年の歴史から言えば、こんなの瞬く間だから当たるの当たらないのというのは気が早いと言われるかもしれない。しかし、私など高齢者はその前に居なくなるかもしれないが、子、孫の代には確実に来るのだ。

下の図は、以前も取り上げた2016年4月(熊本地震の約10日前)のNHK-TVの、京都大学の西村卓也准教授によるものである。日本列島はブロック化している(日本だけではないが)、そしてブロック境界に地震が発生するという。最近の例で言えば、鳥取県中央地震も符合する。
 
IMG_1750s.jpg 
GPSによる地表の移動観測網は全国に張り巡らされているという。海底の調査も行われている。新しいデータを駆使するなどして来るべき災害を減らすべく成果を期待したい。 
 

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

千川上水 下練馬分水  [川・川跡]

下練馬分水は、千川通りと環七が交差する辺りから石神井川に至る、約1.3kmの水路。分水口は四寸四方の樋と言われ、取り入れた水は羽根澤の西の谷に流しこんでいた。現在の正久保通(旧埼玉道)が尾根に当たり、その東側の谷である。流れがほぼ真直ぐ南北に 伸びているので、新旧地図を縦に切り取って並べてみた。
⓪下練馬_新旧#.jpg 
左は明治42年下練馬村、水田を緑に塗ったもの、右は現在の地図で 、GPSでトレースを付けた。
明治の地図には「羽根澤」が見える。これが「はねざわ」→「羽沢」→「「はざわ」と変化したのだろう。 
旧埼玉道は現在の地図では目立たないが、③のところで分水と交差している。「練馬桜台二郵便局」が見える。
①.jpg
①分水口、歩道(写真右下)に四角いマンホールが見える。ここが取水口だったと思われる。栄町15番地。環七ができて、近辺の様子は様変わりしただろう。この辺りの水路跡は分からない。
 
②.JPG
 
 ②すぐ近くに「水入れ」ハイランドマンションがある。
大家さんはここの旧家である。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

③.jpg  ③ 谷筋の入口、マツモト酒店の脇に水路敷のブルーが谷へと誘う。

⑤.JPG

 

 ④分水の真ん中に羽沢ふじ公園

 

 

 

 

 

 

 

⑤.JPG⑤谷を横から眺めてみる。









⑥.JPG

⑥道幅が広がって、クランクになっている。この辺りは水田だったろう。

⑦.jpg

⑦谷筋を出て、広がる田んぼの跡。

⑧.jpg 

⑧この真直ぐな並木の先は石神井川、仲羽橋で終点。 

 


街のへんなもの [路上観察]

ちょっと息抜き。

駐輪禁止①.jpg

駐輪禁止

駐輪禁止③.jpg

究極の駐輪禁止!? 

どうすれば・・.jpg
 行き止まりならUターンさせて!
 
どこ歩けば.jpg 
どこを歩けば?
 
控え目すぎ.jpg 
ちょっと控え目すぎでは?
 
S~Lだと!?.jpg 
サイズS~L !
 
三十路ハイツ.jpg
三十路ハイツ!
 
0411「不正カメラ」.jpg
 不正カメラ!
 

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

千川上水 江古田分水 [川・川跡]

妙正寺川もそうだが、その支流である江古田川(中新井川)の流域も細長い水田であった。江古田川に至るまで、現在の江古田1丁目、江原町を潤していたのが千川上水からの分水だった。GPSロガーを持って歩いた。

江古田分水トレースs#.jpg

トレース上に写真の番号を付けた。ここでは都営大江戸線=目白通りである。

①江古田分水分岐.jpg 

 ①ここが千川上水(千川通り)の分岐。練馬区旭丘2の13と16の間。

②.jpg 

 ②ここから中野区。このY字路は右へ行く。左の道が異様に広いが、目白通りからきてここで終わり。何か計画があったのか?

 ③観音堂.jpg

③目白通りに出る手前、左が江原観音堂/江古田不動。ここに昭和18年建立の整地碑がある。昭和7年に四町村が合併したこと、当時の東京の人口が700万と世界第二位の都市になったこと、かつての江古田が武蔵の一角で太田道灌が豊島氏を破ったところというような辺鄙なところだったが、菜園などができ発展したこと、等々いろいろと書いてある。右手にこぐま公園がある。かつては池があり、大根を洗ったりしていたという。

④.jpg 

 ④目白通り(かつての十三間道路)を渡ったところ。橋の跡と思われるコンクリートの構造物が残っている。流れは、こぐま公園の向かって右、観音堂との間から来て、この橋をクロスした。大きく左カーブしたのだ。右手前の建物の下を流れていたのか。

⑤.jpg 

 ⑤前方に江原小が見える辺りで道幅が急に狭まる。流れが矢印のように曲がっていたことをうかがわせる。

⑥マンホール連続.jpg 

⑥暗渠のお宝!連続マンホール。

⑦江原公園内.jpg 

⑦整地の際につくられた江原公園を通過する。かつてこの辺りは「原」と呼ばれた。因みに「江原」という地名は、江古田と原とを組み合わせたものという。

⑧東橋.jpg 

⑧分水の終点は江古田川の東橋。

江古田分水明治42s.jpg 

明治42年頃の地図(中野区教育委員会発行「江古田・沼袋 中野区民俗調査第4次報告」から)。池があったこぐま公園は牛頭天王稲荷神社だった、江古田分水のゴールは東橋と大橋に分かれていた。 


この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。