①ハッピーロード大山を越え、東武東上線を大山駅の近くで渡る。
②左手は「東京都健康長寿医療センター」、かつての養育院である。私などが子供の頃は遊び場の一つで、巧まずして老幼交流ができていた。高齢者向け施設だと思っていたが、児童、障碍者を含めた医療・福祉の先駆的事業を行ってきたのだと後で知る。美濃部さんが都知事になって近代的な高齢者向け医療センターができた。
③税務署前を通り、山手通り、首都高5号線を渡る。
④右は高架も見える国道17号、千川上水は左の方へ。この辺り、千川上水は中山道とつかず離れず、並行して流れていたようだ。
⑤そして、この辺り、如何にも水を引き込んだと見られる湾曲部に喜内古屋水車があった。
⑥ 国道17号としばし一緒になるが、再び旧道へ。板橋郵便局の右手に入る。
⑦右手にJR埼京線板橋駅が見えてくる。まっすぐ踏切を渡るが、かつての流れはもう少し駅寄りであった。
⑧JRの踏切を越えて水路跡の道に入り、少し遡行して振り返ったところ。今は線路で途切れている(隙間から電車が見える)が、かつては水色の矢印のように流れていた。
⑨上の水色矢印のところで光って見えるのがこのマンホールの蓋。直角方向にもう一組ある。「千川上水」のロゴが美しい。
⑩滝野川6丁目、尾根を行く。開渠は尾根筋を選ぶのだ。右も左も下がっている。
⑪明治通りが見えてきた。 ちょっと見づらいが一時停止標識の下に分水堰の碑がある。手前の丸いマンホール蓋も見逃せない。
⑬分水堰跡の碑である。
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今昔マップ1896-1909を使わせて頂く。水路を青に、水田を緑に着色した。 水田の様子から、V字型に流れる千川上水の上部(北)に石神井川のエンガ堀支流、右に分岐・南下する谷端川が見える。左折部手前(上流)に江古田分水、左折部を直進するように落合分水(葛が谷分水)。
①左折ポイントの昭和40年頃の写真。下流に向かって撮られているので、自動車は目白方向に向かっている。右側は落合分水の分水口跡のようである。
左折ポイントの現況。 ファミレスの辺りに番小屋、その("Jonathan"看板)向い側に千川地蔵があった模様。
③西武池袋線の踏切を越えて350mほど先に水道端交番(今は地域安全センター)、その脇の路地が岩崎水車への取水口と思われる。
④この辺りから道路が低くなるので、上水は1mほど高く築いた堤を流れる。
⑤道路の低くなったところ、交番跡より150mほど先に、上の地図でもわかるように左からエンガ堀(石神井川支流)の支流が迫ってくる。コンビニの脇に水路跡とおぼしき細道がある。
⑥千川親水公園である。千早高校からは地名も長崎から千早に変わり、緑道や公園になる。やがて池袋駅西口から伸びる要町通りと交差する要町3丁目に至る。この辺りに長崎分水(谷端川)の分水口がある筈だが、確認できない。
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③ 谷筋の入口、マツモト酒店の脇に水路敷のブルーが谷へと誘う。
④分水の真ん中に羽沢ふじ公園
⑤谷を横から眺めてみる。
⑥道幅が広がって、クランクになっている。この辺りは水田だったろう。
⑦谷筋を出て、広がる田んぼの跡。
⑧この真直ぐな並木の先は石神井川、仲羽橋で終点。
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駐輪禁止
究極の駐輪禁止!?
トレース上に写真の番号を付けた。ここでは都営大江戸線=目白通りである。
①ここが千川上水(千川通り)の分岐。練馬区旭丘2の13と16の間。
②ここから中野区。このY字路は右へ行く。左の道が異様に広いが、目白通りからきてここで終わり。何か計画があったのか?
③目白通りに出る手前、左が江原観音堂/江古田不動。ここに昭和18年建立の整地碑がある。昭和7年に四町村が合併したこと、当時の東京の人口が700万と世界第二位の都市になったこと、かつての江古田が武蔵の一角で太田道灌が豊島氏を破ったところというような辺鄙なところだったが、菜園などができ発展したこと、等々いろいろと書いてある。右手にこぐま公園がある。かつては池があり、大根を洗ったりしていたという。
④目白通り(かつての十三間道路)を渡ったところ。橋の跡と思われるコンクリートの構造物が残っている。流れは、こぐま公園の向かって右、観音堂との間から来て、この橋をクロスした。大きく左カーブしたのだ。右手前の建物の下を流れていたのか。
⑤前方に江原小が見える辺りで道幅が急に狭まる。流れが矢印のように曲がっていたことをうかがわせる。
⑥暗渠のお宝!連続マンホール。
⑦整地の際につくられた江原公園を通過する。かつてこの辺りは「原」と呼ばれた。因みに「江原」という地名は、江古田と原とを組み合わせたものという。
⑧分水の終点は江古田川の東橋。
明治42年頃の地図(中野区教育委員会発行「江古田・沼袋 中野区民俗調査第4次報告」から)。池があったこぐま公園は牛頭天王稲荷神社だった、江古田分水のゴールは東橋と大橋に分かれていた。
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過密都市で自前の駐車場を持てるということは、それだけでも大したものであ る。
バス(の寸法)が先か建物が先か?
これはネット(You tube)から拝借。
レール付き。マニアックだ!
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沢山の分水ができた。上図は元治元年の様子。分水の痕跡をいくつか探って歩いてみたい。まずは落合(葛ヶ谷村)分水。
GPSロガーを持って歩いた。分水口は千川上水がほぼ直角に左折する南長崎(旗マーク)付近である。昭和23年まで流れを見せていたが、かつては十三間道路と呼ばれていた目白通り(今は地下を都営大江戸線が走る)が整備されたとき、暗渠化された。
「歴史的農業環境閲覧システム」habs.dc.affrc.go.jpより(迅速測図1880年代)。 上のGPSトレースとほぼ同じ場所である。「葛ヶ谷村」の文字の右側を囲むように南下していた。黄色に塗られた「田」を潤しているのが分かる。
上の地図上①の分水入口 。道幅が不自然に変わっている。掲示板の辺りから右に曲がっていったのだろうか。
地図上②の地点。またしても道幅が妙に変わっている。ここは流れが手前から奥に向かい、左に曲がっていったのだ。
③その先は暗く狭い道になる。左は目白学園から落ち込む崖である。
④ゴールは妙正寺川との合流点シアター(?)である。
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日本の国土は世界の0.25%であるのに、そこに活火山は7%(108/1,548) もあるという。かつ、火山と地震は関係する。
(図は何れも国土技術研究センターHPより) www.jice.or.jp/knowledge/japan/commentary13/
9月1日の防災の日を前にした今日も、大型台風10号が接近しつつある。日本は災害大国である。今回の「防災推進国民大会」は第1回であるが、主催者の一つは防災学術連携体であり、日本火山学会、日本地震学会など52の学会が参加している。国、地方行政、学会等が連携しなければならないが、これが「言うは易く・・」なのだろう。とにもかくにも、こうして「学術連携体」が動き出したことは歓迎すべき出来事だ。
]]>千川上水 明治17年 平成17年練馬区教育委員会発行「千川上水」表紙より
将軍綱吉の元禄9年(1696)に開削された江戸の上水である。左端が玉川の取水口、中央の少し右、ほぼ直角に左折するところが今の練馬区と豊島区の境になる。千川上水跡の内、練馬区上石神井から区内を横断して 豊島区との境で左に曲がる辺りまで「千川通」と呼ばれているので分かり易い。
武蔵境駅の北、境橋付近の取水口から、練馬区、中山道板橋宿、 北区滝野川などを経て掘割の豊島区立「千川上水公園」までたどることができる。そこから先は樋であった。
江戸上水総図(「月刊地図中心」399号山下和正氏記事より;千川上水の図と上下が逆になっている)。千川上水は中央やや右のところから左下に向かい、小石川御殿、湯島聖堂、東叡山などに給水していた。この上水開削の第一目的は徳川家の由緒ある御殿への給水であった。
しかし、御府内の水事情では、上水を求めていたのは、徳川御殿だけではなく、小石川、本郷など城北に給水するようになった。この道は一部清戸道とも重なっていた。
さらに開通から11年後の宝永4年(1707)上水沿い二十ヶ村の農民たちの願いで灌漑用水として利用することが許された。千川通の案内板には恩恵を受けた田は百町歩(100ヘクタール)に及んだと記されている。上は千川家文書の一部。分水をさせてもらうと、使用料を払わねばならなかったんだな。