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寛永寺と千川上水 [川・川跡]

上野台地_H7年1月LL.jpg

平成7年1月の上野の山。上の方が北北東で上野台地の端っこ=武蔵野台地の端っこ。写真下に向かってわずかに下りとなる。平成館は建築中。以下、資料(東京国立博物館構内発掘調査団編「上野寛永寺旧本坊関連遺跡発掘報告書Ⅰ総括編」、Ⅱ平成館編2004.4.30発行)参照。

千川上水の、そもそもの目的である将軍御成りの地への配水先の一つが東叡山寛永寺であった。

本郷台地から上野台地に本当に届いていたのかどうか、追いかけてきたが、結論を言えば、「通じた時もあったが長くはなかった」、ということである。元禄9年(1696)完成、享保7年(1722)廃止、天明元年(1781)再興されたが天明6年再び廃止された。合計しても高々32年間である。しかも、千川家絵図では「只今、相懸かり申さず候」と書かれていたりする。実際にはもっと短かったのではないか。

平成館地点1・2・5区L.jpg
そうなると、寛永寺の水事情はどうだったのだろうか?上は、国立博物館平成館の敷地にあった水路跡である。平成館といえば、本坊の西部分である。
遺構発掘調査報告書では、「石組み溝に沿って広場中心側に築地跡が検出され、広場側の排水を石組暗渠で行っている」とある。上の写真の石組は下水で、上水は並行する「水道抗」だったようだ。内部には木樋も検出されている。上の写真では、石組がクランク状に曲がったところの手前の溝が水道H抗である。(同報告書)
寛永寺001b.jpg
上は今回調査の区割りである。水路跡写真は、上図で緑で囲った辺りである。
そして、求めていた記述があった。「さらに、石積基壇東側には砂利敷遺構を切る水道跡が検出されたが、3W区では砂利敷のさらに下層から検出されており、元禄9年(1696)敷設のいわゆる仙川上水より遡るものであると推定される。」と。3W区とは上図の赤で囲った部分である。「仙川」と「千川」とは取り違いだろう。千川上水は寛永寺北部につながっていたことが分かった。詳細は不明だが、千川上水追っかけの一応の区切りとしたい。
一方、今回の発掘調査では複数の井戸が検出されている。また、谷根千工房発行(1995.9.10)の”上野のお山を読む「上野の杜事典」”では、東照宮の宮司さんの話として「そもそも上野台地は、水の豊かな所ですからねぇ。上水なんて必要なかったんですよ」を引用している。その真偽は不明だが、井戸も利用されていたのだろう。



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