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千川上水 江古田分水 [川・川跡]

妙正寺川もそうだが、その支流である江古田川(中新井川)の流域も細長い水田であった。江古田川に至るまで、現在の江古田1丁目、江原町を潤していたのが千川上水からの分水だった。GPSロガーを持って歩いた。

江古田分水トレースs#.jpg

トレース上に写真の番号を付けた。ここでは都営大江戸線=目白通りである。

①江古田分水分岐.jpg 

 ①ここが千川上水(千川通り)の分岐。練馬区旭丘2の13と16の間。

②.jpg 

 ②ここから中野区。このY字路は右へ行く。左の道が異様に広いが、目白通りからきてここで終わり。何か計画があったのか?

 ③観音堂.jpg

③目白通りに出る手前、左が江原観音堂/江古田不動。ここに昭和18年建立の整地碑がある。昭和7年に四町村が合併したこと、当時の東京の人口が700万と世界第二位の都市になったこと、かつての江古田が武蔵の一角で太田道灌が豊島氏を破ったところというような辺鄙なところだったが、菜園などができ発展したこと、等々いろいろと書いてある。右手にこぐま公園がある。かつては池があり、大根を洗ったりしていたという。

④.jpg 

 ④目白通り(かつての十三間道路)を渡ったところ。橋の跡と思われるコンクリートの構造物が残っている。流れは、こぐま公園の向かって右、観音堂との間から来て、この橋をクロスした。大きく左カーブしたのだ。右手前の建物の下を流れていたのか。

⑤.jpg 

 ⑤前方に江原小が見える辺りで道幅が急に狭まる。流れが矢印のように曲がっていたことをうかがわせる。

⑥マンホール連続.jpg 

⑥暗渠のお宝!連続マンホール。

⑦江原公園内.jpg 

⑦整地の際につくられた江原公園を通過する。かつてこの辺りは「原」と呼ばれた。因みに「江原」という地名は、江古田と原とを組み合わせたものという。

⑧東橋.jpg 

⑧分水の終点は江古田川の東橋。

江古田分水明治42s.jpg 

明治42年頃の地図(中野区教育委員会発行「江古田・沼袋 中野区民俗調査第4次報告」から)。池があったこぐま公園は牛頭天王稲荷神社だった、江古田分水のゴールは東橋と大橋に分かれていた。 


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