千川上水 下流を歩く(寛永寺への給水) [川・川跡]
本郷も上野も台地で、その間に古石神井川の幅広い溺れ谷(現在は不忍通とよみせ通・へび道が並行している)がある。当時はあまり大きな川ではないとはいえ、藍染川(上流は谷田川)が流れていた。駒込・本郷の千川上水幹線から寛永寺にはどう給水していたのだろうか?
正徳末~享保初の江戸上水総図(作者不明,山下和正さんコレクション)では吉祥寺の南から「三サキ通り」に沿って東叡山までつながっている。途中、何故か弧を描いている。団子坂から三崎通にかけて、道路には現在も享保時代もこのようなカーブはない。この「弧」は何だろう?
千川家の絵図(享保2~3)では円弧までで途切れている。
改めて地形を見てみる。本郷側、向丘二丁目付近の標高は20m以上ある。団子坂下は6m、三崎坂を上がったところも20m近くある。当時の技術で、サイフォンで越えたのであろうか?
最近、もう少し詳しい地図を見つけた。千川上水江戸府内絵図(正徳3~享保7)で、これもスプーン状曲線の先で途切れている。
何れにしても、これらの絵図作成時には「不通」であったのだ。
一度は開通したが、水漏れが多発したりして、維持管理も思うにまかせず、途切れた状態が続いたのではないだろうか。
それにしても、木樋でサイフォンを完成させたとすれば、江戸の技術力は大したものだ。
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