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千川上水 下流を歩く(寛永寺、上野動物園) [川・川跡]

千川上水は本当に本郷台から谷田川の谷を下って上野の台地に上がっていたのだろうか?

ところが「千川上水」の文字が明治時代の上野動物園の図にあった。

千川上水は享保7年(1722)には、井戸の普及などもあって廃止され、農地への灌漑用水となっていた。しかし、明治13年(1880)、岩崎弥太郎によっておこされた千川水道株式会社によって、翌明治14年には復活し、本郷、下谷、浅草、小石川、神田に給水した。そして、寛永寺から上野動物園にも!

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「上野動物園百年史」より
丸の番号は、拡張の年を表しており、①が明治15年(1882)、⑮が昭和56年(1981)である。百年史には、「上野動物園は、開園から明治34年(1901)まで、この千川上水の水を使用していた。現在、閑々亭裏、芸術大学との間に、その遺構を見ることができる。」とある。
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左が閑々亭、右がその裏の千川水道跡。幅2mほどの開渠である。
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明治32~33年頃は、園内を堂々と流れ、花園町に向かっていた。「上野動物園百年史」より
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昭和6年の図では、流れは無く痕跡を残すのみとなっている。「上野動物園百年史」より
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現在(東園)
現在も園内に痕跡は残っている。「閑〃橋」がある。かつての流れはライオンの前から藤棚休憩所、動物医療センターの南辺りを通っていたものだろう。
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千川上水跡、現在の姿
千川水道株式会社の目的の一つは、上野公園で開催された第二回内国勧業博覧会場への給水であった。しかし、終了後は、かつて寛永寺本堂のあった国立博物館に引き継がれている。元禄の頃も上水は谷を下り、坂を上って寛永寺に達していたのだ。
なお、今回いくつかの文献を参照したが、特に大松騏一著「千川上水三百年の謎を追う」がとても参考になった。

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