SSブログ
川・川跡 ブログトップ
- | 次の10件

千川上水 下練馬分水  [川・川跡]

下練馬分水は、千川通りと環七が交差する辺りから石神井川に至る、約1.3kmの水路。分水口は四寸四方の樋と言われ、取り入れた水は羽根澤の西の谷に流しこんでいた。現在の正久保通(旧埼玉道)が尾根に当たり、その東側の谷である。流れがほぼ真直ぐ南北に 伸びているので、新旧地図を縦に切り取って並べてみた。
⓪下練馬_新旧#.jpg 
左は明治42年下練馬村、水田を緑に塗ったもの、右は現在の地図で 、GPSでトレースを付けた。
明治の地図には「羽根澤」が見える。これが「はねざわ」→「羽沢」→「「はざわ」と変化したのだろう。 
旧埼玉道は現在の地図では目立たないが、③のところで分水と交差している。「練馬桜台二郵便局」が見える。
①.jpg
①分水口、歩道(写真右下)に四角いマンホールが見える。ここが取水口だったと思われる。栄町15番地。環七ができて、近辺の様子は様変わりしただろう。この辺りの水路跡は分からない。
 
②.JPG
 
 ②すぐ近くに「水入れ」ハイランドマンションがある。
大家さんはここの旧家である。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

③.jpg  ③ 谷筋の入口、マツモト酒店の脇に水路敷のブルーが谷へと誘う。

⑤.JPG

 

 ④分水の真ん中に羽沢ふじ公園

 

 

 

 

 

 

 

⑤.JPG⑤谷を横から眺めてみる。









⑥.JPG

⑥道幅が広がって、クランクになっている。この辺りは水田だったろう。

⑦.jpg

⑦谷筋を出て、広がる田んぼの跡。

⑧.jpg 

⑧この真直ぐな並木の先は石神井川、仲羽橋で終点。 

 


千川上水 江古田分水 [川・川跡]

妙正寺川もそうだが、その支流である江古田川(中新井川)の流域も細長い水田であった。江古田川に至るまで、現在の江古田1丁目、江原町を潤していたのが千川上水からの分水だった。GPSロガーを持って歩いた。

江古田分水トレースs#.jpg

トレース上に写真の番号を付けた。ここでは都営大江戸線=目白通りである。

①江古田分水分岐.jpg 

 ①ここが千川上水(千川通り)の分岐。練馬区旭丘2の13と16の間。

②.jpg 

 ②ここから中野区。このY字路は右へ行く。左の道が異様に広いが、目白通りからきてここで終わり。何か計画があったのか?

 ③観音堂.jpg

③目白通りに出る手前、左が江原観音堂/江古田不動。ここに昭和18年建立の整地碑がある。昭和7年に四町村が合併したこと、当時の東京の人口が700万と世界第二位の都市になったこと、かつての江古田が武蔵の一角で太田道灌が豊島氏を破ったところというような辺鄙なところだったが、菜園などができ発展したこと、等々いろいろと書いてある。右手にこぐま公園がある。かつては池があり、大根を洗ったりしていたという。

④.jpg 

 ④目白通り(かつての十三間道路)を渡ったところ。橋の跡と思われるコンクリートの構造物が残っている。流れは、こぐま公園の向かって右、観音堂との間から来て、この橋をクロスした。大きく左カーブしたのだ。右手前の建物の下を流れていたのか。

⑤.jpg 

 ⑤前方に江原小が見える辺りで道幅が急に狭まる。流れが矢印のように曲がっていたことをうかがわせる。

⑥マンホール連続.jpg 

⑥暗渠のお宝!連続マンホール。

⑦江原公園内.jpg 

⑦整地の際につくられた江原公園を通過する。かつてこの辺りは「原」と呼ばれた。因みに「江原」という地名は、江古田と原とを組み合わせたものという。

⑧東橋.jpg 

⑧分水の終点は江古田川の東橋。

江古田分水明治42s.jpg 

明治42年頃の地図(中野区教育委員会発行「江古田・沼袋 中野区民俗調査第4次報告」から)。池があったこぐま公園は牛頭天王稲荷神社だった、江古田分水のゴールは東橋と大橋に分かれていた。 


千川上水 落合分水 [川・川跡]

千川上水は徳川家関連の寺院や庭園、次いで武家屋敷・町屋に給水を行ったが、さらに流域周辺の田畑の灌漑に用いられるようになった。

千川用水元治元年.jpg 

沢山の分水ができた。上図は元治元年の様子。分水の痕跡をいくつか探って歩いてみたい。まずは落合(葛ヶ谷村)分水。

落合分水トレースnk.jpg 

GPSロガーを持って歩いた。分水口は千川上水がほぼ直角に左折する南長崎(旗マーク)付近である。昭和23年まで流れを見せていたが、かつては十三間道路と呼ばれていた目白通り(今は地下を都営大江戸線が走る)が整備されたとき、暗渠化された。

葛が谷.jpg 

 「歴史的農業環境閲覧システム」habs.dc.affrc.go.jpより(迅速測図1880年代)。 上のGPSトレースとほぼ同じ場所である。「葛ヶ谷村」の文字の右側を囲むように南下していた。黄色に塗られた「田」を潤しているのが分かる。

落合分水入口.JPG 

上の地図上①の分水入口 。道幅が不自然に変わっている。掲示板の辺りから右に曲がっていったのだろうか。

西落合1-21.jpg 

地図上②の地点。またしても道幅が妙に変わっている。ここは流れが手前から奥に向かい、左に曲がっていったのだ。

目白学園脇.jpg 

③その先は暗く狭い道になる。左は目白学園から落ち込む崖である。

妙正寺川合流点.jpg

④ゴールは妙正寺川との合流点シアター(?)である。 


千川上水今昔 [川・川跡]

 
練馬駅から東長崎にかけて、かつての千川上水と現在を比較しつつ歩いてみた。 
 
練馬区豊玉北6-13今昔s.jpg
目白通りと交差して間もなくの豊玉北6丁目13付近。上流から。旧写真はいずれも昭和26-27年。平成12年練馬区教育委員会発行「千川上水」より  
 豊玉北・揚水地点新旧s.jpg
豊玉北6-13付近。千川上水の水不足のため、石神井川からポンプで揚水、合流させていた。 上流から見る。
 
練馬区栄町9今昔ss.jpg 
栄町9付近。武蔵大学前の暗渠工事が進められている。 下流側から。
 江古田二又今昔ss.jpg
江古田二又。現在五差路になっており、その名はかろうじてバス停にとどめられている。千川上水はこの建物の左側を手前に流れてくる。右の道は北西へ、石神井川の正久保橋へ向かう。 
200610221428000.jpg 
この丸に「千」の境界石は、江古田二又にあったものだが、平成3年にここ、練馬区立旭丘地域集会所に移設された。 
南長崎6-34新旧ss.jpg 
南長崎6-34付近。南長崎6丁目交差点をほぼ直角に左折した後、西武池袋線を横断する。江古田(左)と東長崎(右)の間である。暗渠化して道路は広くなったが、踏切が閉まると渋滞してしまう。"Lions"のラッピング電車が走っていた。 
 

千川上水 [川・川跡]

 千川上水・明治17map_s.jpg

千川上水 明治17年 平成17年練馬区教育委員会発行「千川上水」表紙より

将軍綱吉の元禄9年(1696)に開削された江戸の上水である。左端が玉川の取水口、中央の少し右、ほぼ直角に左折するところが今の練馬区と豊島区の境になる。千川上水跡の内、練馬区上石神井から区内を横断して 豊島区との境で左に曲がる辺りまで「千川通」と呼ばれているので分かり易い。

千川上水map_s.jpg 

武蔵境駅の北、境橋付近の取水口から、練馬区、中山道板橋宿、 北区滝野川などを経て掘割の豊島区立「千川上水公園」までたどることができる。そこから先は樋であった。

江戸上水道総図.jpg 

江戸上水総図(「月刊地図中心」399号山下和正氏記事より;千川上水の図と上下が逆になっている)。千川上水は中央やや右のところから左下に向かい、小石川御殿、湯島聖堂、東叡山などに給水していた。この上水開削の第一目的は徳川家の由緒ある御殿への給水であった。

PAP_0097.JPG 

 しかし、御府内の水事情では、上水を求めていたのは、徳川御殿だけではなく、小石川、本郷など城北に給水するようになった。この道は一部清戸道とも重なっていた。

 千川家文書.jpg

さらに開通から11年後の宝永4年(1707)上水沿い二十ヶ村の農民たちの願いで灌漑用水として利用することが許された。千川通の案内板には恩恵を受けた田は百町歩(100ヘクタール)に及んだと記されている。上は千川家文書の一部。分水をさせてもらうと、使用料を払わねばならなかったんだな。

PAP_0079.JPG
 
上記地図でたびたび登場する、流れが南東から北東にほぼ直角に左折する場所がここ、現南長崎6丁目交差点である。 流れは画面左から来て、ジョナサンの駐車場の前を左方向に行く。この交差点の右奥の角は籾山牧場であった。
 都道439号線起点.jpg
この交差点は都道439号線=千川通りの起点でもあるのだ。 

- | 次の10件 川・川跡 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。