地震予知とは [地形・地質]
千川上水 下練馬分水 [川・川跡]
③ 谷筋の入口、マツモト酒店の脇に水路敷のブルーが谷へと誘う。
④分水の真ん中に羽沢ふじ公園
⑤谷を横から眺めてみる。
⑥道幅が広がって、クランクになっている。この辺りは水田だったろう。
⑦谷筋を出て、広がる田んぼの跡。
⑧この真直ぐな並木の先は石神井川、仲羽橋で終点。
千川上水 江古田分水 [川・川跡]
妙正寺川もそうだが、その支流である江古田川(中新井川)の流域も細長い水田であった。江古田川に至るまで、現在の江古田1丁目、江原町を潤していたのが千川上水からの分水だった。GPSロガーを持って歩いた。
トレース上に写真の番号を付けた。ここでは都営大江戸線=目白通りである。
①ここが千川上水(千川通り)の分岐。練馬区旭丘2の13と16の間。
②ここから中野区。このY字路は右へ行く。左の道が異様に広いが、目白通りからきてここで終わり。何か計画があったのか?
③目白通りに出る手前、左が江原観音堂/江古田不動。ここに昭和18年建立の整地碑がある。昭和7年に四町村が合併したこと、当時の東京の人口が700万と世界第二位の都市になったこと、かつての江古田が武蔵の一角で太田道灌が豊島氏を破ったところというような辺鄙なところだったが、菜園などができ発展したこと、等々いろいろと書いてある。右手にこぐま公園がある。かつては池があり、大根を洗ったりしていたという。
④目白通り(かつての十三間道路)を渡ったところ。橋の跡と思われるコンクリートの構造物が残っている。流れは、こぐま公園の向かって右、観音堂との間から来て、この橋をクロスした。大きく左カーブしたのだ。右手前の建物の下を流れていたのか。
⑤前方に江原小が見える辺りで道幅が急に狭まる。流れが矢印のように曲がっていたことをうかがわせる。
⑥暗渠のお宝!連続マンホール。
⑦整地の際につくられた江原公園を通過する。かつてこの辺りは「原」と呼ばれた。因みに「江原」という地名は、江古田と原とを組み合わせたものという。
⑧分水の終点は江古田川の東橋。
明治42年頃の地図(中野区教育委員会発行「江古田・沼袋 中野区民俗調査第4次報告」から)。池があったこぐま公園は牛頭天王稲荷神社だった、江古田分水のゴールは東橋と大橋に分かれていた。
駐車努力 [路上観察]
坂や川跡を目当てに歩き回ること久しい。途中、駐車の技術に感心のあまりシャッターを切ってしまうことがある。
過密都市で自前の駐車場を持てるということは、それだけでも大したものであ る。
バス(の寸法)が先か建物が先か?
これはネット(You tube)から拝借。
レール付き。マニアックだ!
千川上水 落合分水 [川・川跡]
千川上水は徳川家関連の寺院や庭園、次いで武家屋敷・町屋に給水を行ったが、さらに流域周辺の田畑の灌漑に用いられるようになった。
沢山の分水ができた。上図は元治元年の様子。分水の痕跡をいくつか探って歩いてみたい。まずは落合(葛ヶ谷村)分水。
GPSロガーを持って歩いた。分水口は千川上水がほぼ直角に左折する南長崎(旗マーク)付近である。昭和23年まで流れを見せていたが、かつては十三間道路と呼ばれていた目白通り(今は地下を都営大江戸線が走る)が整備されたとき、暗渠化された。
「歴史的農業環境閲覧システム」habs.dc.affrc.go.jpより(迅速測図1880年代)。 上のGPSトレースとほぼ同じ場所である。「葛ヶ谷村」の文字の右側を囲むように南下していた。黄色に塗られた「田」を潤しているのが分かる。
上の地図上①の分水入口 。道幅が不自然に変わっている。掲示板の辺りから右に曲がっていったのだろうか。
地図上②の地点。またしても道幅が妙に変わっている。ここは流れが手前から奥に向かい、左に曲がっていったのだ。
③その先は暗く狭い道になる。左は目白学園から落ち込む崖である。
④ゴールは妙正寺川との合流点シアター(?)である。
千川上水今昔 [川・川跡]
故人からの手紙 [雑感]
防災推進国民大会 [地形・地質]
8月28日、第1回防災推進国民大会ワークショップに行ってきた。動機は、火山噴火や首都圏地震に関する専門家の講演を直に聴けるという不純(?)なものであったが、防災意識は高まったのでお許し頂けるだろう。
日本の国土は世界の0.25%であるのに、そこに活火山は7%(108/1,548) もあるという。かつ、火山と地震は関係する。
(図は何れも国土技術研究センターHPより) www.jice.or.jp/knowledge/japan/commentary13/
9月1日の防災の日を前にした今日も、大型台風10号が接近しつつある。日本は災害大国である。今回の「防災推進国民大会」は第1回であるが、主催者の一つは防災学術連携体であり、日本火山学会、日本地震学会など52の学会が参加している。国、地方行政、学会等が連携しなければならないが、これが「言うは易く・・」なのだろう。とにもかくにも、こうして「学術連携体」が動き出したことは歓迎すべき出来事だ。
千川上水 [川・川跡]
千川上水 明治17年 平成17年練馬区教育委員会発行「千川上水」表紙より
将軍綱吉の元禄9年(1696)に開削された江戸の上水である。左端が玉川の取水口、中央の少し右、ほぼ直角に左折するところが今の練馬区と豊島区の境になる。千川上水跡の内、練馬区上石神井から区内を横断して 豊島区との境で左に曲がる辺りまで「千川通」と呼ばれているので分かり易い。
武蔵境駅の北、境橋付近の取水口から、練馬区、中山道板橋宿、 北区滝野川などを経て掘割の豊島区立「千川上水公園」までたどることができる。そこから先は樋であった。
江戸上水総図(「月刊地図中心」399号山下和正氏記事より;千川上水の図と上下が逆になっている)。千川上水は中央やや右のところから左下に向かい、小石川御殿、湯島聖堂、東叡山などに給水していた。この上水開削の第一目的は徳川家の由緒ある御殿への給水であった。
しかし、御府内の水事情では、上水を求めていたのは、徳川御殿だけではなく、小石川、本郷など城北に給水するようになった。この道は一部清戸道とも重なっていた。
さらに開通から11年後の宝永4年(1707)上水沿い二十ヶ村の農民たちの願いで灌漑用水として利用することが許された。千川通の案内板には恩恵を受けた田は百町歩(100ヘクタール)に及んだと記されている。上は千川家文書の一部。分水をさせてもらうと、使用料を払わねばならなかったんだな。